11 見方・生き方(プラトン)




第11回サイファイ・カフェSHE 札幌のお知らせ



テーマ: プラトン哲学からものの見方、生き方を考える

日 時: 2024年4月6日(土)15:00~17:30 

会 場: 京王プレリアホテル札幌 会議室

札幌市北区北8条西4丁目11-1



https://www.keioprelia.co.jp/sapporo/access/


カフェの内容

今回は、西欧哲学の祖とも言われるプラトン(427-347 BC)が遺したものを読み、そこに提示されているこの世界の見方、それを基にしたあるべき生き方について考えます。特に『饗宴』『パイドン』に焦点を合わせ、プラトンの言う「エロス」(愛)と「タナトス」(死)が我々の生にもたらすものを、日本の哲学者井筒俊彦(1914-1993)の分析(『神秘哲学』所収)や現代の我々の状況などを踏まえながら語り合う機会にしたいと考えております。このテーマに興味をお持ちの方の参加をお待ちしております。

 

参加費: 一般 500円、学生 無料

参加希望者は、she.yakura@gmail.com までお知らせいただければ幸いです。

よろしくお願いいたします。



会のまとめ




今回は「プラトン哲学からものの見方、生き方を考える」と題して、プラトン(427-347 BC)の対話篇『饗宴』と『パイドン』を読み、そこから明らかになるこの世界の見方、そして人間の生き方について議論した。参加された4名の内2名は初めての方で、会に新たな刺激が加わったように感じた。サイファイ研究所ISHEが主催するカフェ/フォーラムはすべての方に開かれているので、これからも新しい参加者を歓迎したい。

さて、プラトン哲学だが、その基礎となる世界の捉え方に、知覚される世界=見せかけの世界=イデア(永遠の真理)の模倣の世界(the sensible)に対して、感知できない世界=イデアの世界(the intelligible)がある。前者は感覚に依存する常に動いている世界で、そこに留まる限り本質には辿り着けないが、後者は理性を介するために不変の真理、本質に到達できるとされる。そのためには、感覚世界である日常生活から離れなければならない。

この理論の背景に、ソクラテス以前の哲学者ヘラクレイトス(c. 540-c. 480 BC)の哲学があるとされる。プラトンの弟子アリストテレス(384-322 BC)は、その著『形而上学』の中で次のように書いている。

若い頃からプラトンは、初めにクラテュロス(5th century BC)に接してこの人のヘラクレイトス的な見解――およそ感覚的な事物はことごとく絶えず流転しているので、これらの事物については真の認識は存しえない――に親しんだ。ソクラテス(c. 470-399 BC)は、倫理的方面の事柄について定義することに初めて思いをめぐらした人だが、プラトンは感覚的事物は絶えず転化しているので、共通普遍の定義はどのような感覚的事物についても不可能であると考えた。(出隆訳)

プラトンをしてそのような考えに至らしめたヘラクレイトスの哲学とは、どのようなものであったのだろうか。一つは、Panta rhei(パンタレイ:すべては流れ、過ぎ去る)という言葉で表される、この世界は流れと変容の中にあるという見方である。同様の言葉に「同じ川に二度入ることはできない」というのがある。水は常に流れているので、同じ川はない。そこに入る人間も瞬間瞬間で変わっている。したがって、人間は同じ川には入ることができない。しかし、川あるいは人間というものは存在するという考え方になる。

第二の特徴は、世界は対立するもの(生/死、老/若、昼/夜など)が時間をかけて反対のものに変化し、統一されると考えたことである(「対立の統一」と呼ばれる)。これはプラトンが『パイドン』で展開する霊魂不滅の説にも繋がる考え方である。ヘラクレイトスは戦争を含めた対立こそ創造性の源であると考えていたようである。

それから彼は、永遠の変容はカオス(混沌)とは異なり、その外見の背後には秩序があり、節度をもって動いていると考え、その鍵を 「ロゴス」 (λόγος) であるとした。ヘラクレイトスは、世界を統一するものとしてロゴスを考えた最初の哲学者と言われる。


それでは『饗宴』を読み進めたい(引用は鈴木照雄訳)。これはプラトン中期の対話篇で、悲劇詩人アガトン (c. 448–c. 401 BC) のところで開かれた彼の悲劇の祝勝宴 (c. 416 BCに設定) において展開したエロスについての議論が描かれている。このテーマを提案したパイドロスは、次のようなことを言っている。

エロースに対しては、・・・いまだかつて唯一人の詩人さえもが賛美の歌のひとかけらさえ作っていないのだ。・・・あのように偉大な神が、これほどまでにないがしろにされてきたのだ。

エロースは偉大な神であり、人間のうちにあっても神々のうちにあっても驚嘆すべき神である。・・・なかんずくその出生に関して然りである。なぜなら、この神が古い上にも古いということ――これは、ご自身の栄誉となる事柄だからである。

ヘシオドスによれば、最初にカオスが生じ、そのあとにガイアと共にエロスが生じたとある。また、エロスは立派な生き方をしようとする人々にとって一生の指導原理を植え付けることができる点で、門閥も名誉も富も及ばない。その指導原理とは、醜いものを恥じ、美しいものに対して功名を競う心である。そして、こう結ぶ。

エロースが神々の中でいちばん古く、いちばん尊く、また生者死者の別なくすべての人間にとって、徳と幸福を獲得するためにはいちばん力を持つ者であることを主張する。

続くパウサニアスは、次のように論を進める。パイドロスの話は、エロスが1種類であれば問題ないが、複数ある場合にはどのエロスを第一に褒めるべきなのかを明らかにしなければならない。エロスはアプロディテ(愛・美の神)と不可分で、アプロディテには2種類あるので、エロスも2種類あると考えなければならない。アプロディテには年上のウラニアと年下のパンデモスがあり、前者は本質的に強壮で理性に恵まれたものの方を愛し、放埓とは無縁であるが、後者は低俗(パンデモス)で、その行為は出鱈目、魂よりは肉体を恋し、できるだけ考えのないものを恋する。その上で、醜いのは魂より肉体に恋する低俗な恋を懐く者の恋心を受け入れることで(パンデモス・アプロディテ)あり、美しいのは永続性がある相手の人柄に恋する場合(ウラニア・アプロディテ)であるとする。

次いで医師のエリュクシマコスが、パウサニアスの分析、特にエロスに2種類あるというところは見事であったと話を始める。しかし、それは美少年に対するものだけではなく、他の多くのものを志向するものであり、人間の魂以外のあらゆる動物、大地に生育する諸物、さらに言えば、存在すべてのものに遍在している。そのことを観取したのは医学のおかげであったという。体には、健康な部分に発動するエロスと病的な部分に発動するエロスがある。前者を満足させるのは美しいことで、後者を満たすのは恥ずべきことである。医学とは、この二つを診断・判別し相互のバランスを取ることであり、それはエロスに司られている。これはヘラクレイトスが言おうとしたことであろう(対立の統一)。エロスにはいろいろな力があるが、最も強いのは、節制と正義をもって我々相互の間、そして我々と神々の間を取り持ってくれるエロスである。参加者からも指摘があったが、エリュクシマコスのエロス論が拙著『免疫から哲学としての科学へ』で展開したわたしの免疫論と非常によく重なっているのは、驚くべきことである。

続く喜劇詩人のアリストパネスによれば、エロスは一番人間に好意を寄せている神で、人間の救援者、幸福を阻害する病の医者である。その上で、人間に関する興味深い理論を提示する。人間本来の姿は「男」(太陽の子孫)、「女」(大地の子孫)、両者を併せ持つ両性具有「男女」 (月の子孫)であった。容姿は球形で、手足は4本、反対に向かう2つの顔、耳は4つ、隠し所(陰部)は2つだった。しかし、人間が神々を攻撃しようとして天に昇ることを企てたため、ゼウスは人間を2つに切断。その後、人間たちはそれぞれの半身を求めるようになった。エロスとは、2つの半身を一体にして人間本来の姿を回復させるもので、「完全なものへの欲求(憧憬)と追及」 に付けられた名前だという。

次にホストの悲劇詩人アガトンが登場。賛美の正しいやり方は、対象がどのような性質のものであり、いかなるものの原因になっているのかを詳述することであるが、まだされていないとして、以下のような性質を挙げる。エロスは一番美しく高貴なので、神々の中で一番幸福な神である。一番若く、永遠に若い。一番華奢で、容姿が優美で瑞々しい。正義の徳を持ち、快楽や欲望を支配する節制の徳があり、勇気がある。また、文芸に関わる創作全般に優れており、弓術、医術、卜占術の発見もエロスによる。さらにエロスにはすべての生物を生じさせる力がある。そしてこう加える。

この神は人々を寄り合わせ、今ここでしているような集いを催させ、我々から互いに他人であるという気持ちをなくし、互いに同類であるという気持ちで満たす。それは穏和をもたらし、粗暴を放逐する者。

このような一節を読むと、この日のカフェにもエロスの神が舞い降りていたのではないかという感慨が湧いてくる。



Socrates by William Blake (c. 1820)


ここでソクラテスが登場し、以前にペロポネソス半島のマンティネイア出身の女性ディオティマから聞いた話を紹介する。ディオティマは、エロスは不死なるものと死すべきものとの中間にあるダイモン的なものだと言う。つまり、ダイモンとは神と人間の間に立ち、両者の空隙を埋めるような仲介の働きをするもので、エロスもその一つということになる。エロスを考える場合に重要になるのが、その出自である。ディオティマによれば、アプロディテが生まれた時の祝宴で、ポロス(豊富、術策)とぺニア(貧乏、欠乏)が出会い生まれた。この息子は、母の性を受けいつも貧しく、父の血を受け美しいもの、善きものを狙う。生涯に亘り知を愛し、策略を編み出し、思慮分別がある。しかし、手に入れるものはいつも漏れ落ち、困窮もしないが富むこともない。知に関しても叡知と無知の中間にある者、つまり「愛智者」「哲学者」なのである。

美しいもの・善いものを手に入れると授かるものは幸福である。エロスとは、善きものが永遠に自分のものであることを目指すもので、必然的に不死を目指すものでもある。ここで言うエロスは、上でパウサニアスが説明した2つのエロスとは違うように見えるがどうなのかという疑問が出されたが、おそらくパウサニアスが言う善きものに向かうウラニア・アプロディテと同質のものと考えてよいのではないだろうか。

さらに、肉体の上で身籠る場合と魂の上で身籠っている場合の違いに言及される。前者は女性に向かい、後者は知恵や諸々の徳――特に、国と家を治める知恵<節制と正義>――に向かう。その上で、人間の子供を持つよりは、詩や法律を生み出したがために尊敬されることを歓迎する。年若いうちは美しい肉体にエロスは向かうが、時と共に肉体の美よりは魂の美を貴重なものと見做すようになる。さらに進むと、人間の営みや決まりに内在する美に気づくようになる。知識の美を観取し、知を求めながら壮大な言論や思想を生み出し、遂にはエロスの究極目標である次のような特徴を持つ唯一の知識(善のイデア)を感得することになる。

1)永遠に存在し、生成も消滅も、増大も減少もしない。

2)状況によって変わるような相対的な美ではない。

3)言論や体の部分、動物、自然などの具体的な形としては現れない。

4)それ自身で単一な形相を持つものとして永遠にある。

ディオティマの話に説得されたソクラテスは、こう宣言する。

究極の宝物を得るための修業をするだけではなく、現在もこれからも、力の及ぶ限り、エロスを崇めることを他の人々に勧告していきたい。

これは後に見る向上道(アナバシス)と向下道(カタバシス)に通じる営みを示しており、哲学の実践と普及に向かうソクラテスの覚悟が窺える言葉である。

『饗宴』の最後は、アルキビアデス(c. 450-404 BC)がソクラテスを次のように賛美して終わる。

昔の人にもいま生きている人にも、誰にも似ていない、・・・風変わりな点で・・・古今の人たちの中から探しても、それに近い者すら見つけ出すことができないだろう。

まず第一に、世にある言論のうちでただ彼のだけが、内に知性をもっていることに、その人は気づくだろう。ついで、それがこの上なく神々しい言論であり、徳の神像を最も多くその体内に持ち、理想的な人間になろうとするものが探求するにふさわしい対象の大部分に向かっている、いやむしろ、その全体にわたっていることに、気づくだろう。

 


La mort de Socrate by Jacques-Louis David (1787)


これから、ソクラテス最期の日に監獄に集まった人との間に起こったことが描かれている『パイドン』(引用は岩田靖夫訳)に入っていきたい。ここで問題にされているテーマは、魂と肉体の関係、死に対する態度、魂の永遠について、真の哲学者とは、あるいは我々はどう生きるべきなのかというような根源的な問いであった。

すべての 「もの・こと」 の本質(ousia)、真理の探究には、肉体の感覚は邪魔になり、思考(phronesis)を必要としているので、できるだけ肉体から離れ、魂の方へ向きを変えること; 肉体を最も侮蔑し、肉体から逃亡し、自分自身だけになろうとすることが求められる。つまり、魂によって「そのもの」を見なければならないとすれば、魂が肉体から離れる死を迎えなければ真実には辿り着けないことになる。真の哲学者とは、魂を肉体から切り離して死ぬことを実践し、恰も死人のような生き方をしている人になるので、哲学者にとって死を恐れることほど不合理なことはないというのが、ソクラテスの考えである。

魂が肉体から離れると雲散霧消するのではないかというケベスの反論に対して、ソクラテスが霊魂不滅の証明を試みる。まず、生成の循環的構造による証明が行われる。これは冒頭で触れたヘラクレイトス哲学の「対立の統一」の影響が表れており、生成は、美・醜、正・不正、強・弱、増・減、覚醒・睡眠、生・死など、反対のものから起こるとする考えである。この説によれば、生と死は絶対的な状態ではなく、生死のサイクルの中での相対的な位置を指していることになり、死者が生き返るとは死の状態から生に戻ることで、新たに生まれることではない。これが正しければ、魂はあの世(ハデス)にもあることになる。

想起説による証明では、学習は想起に他ならないという説が本当であれば、魂は以前にそのことを学んでいなければならない。我々が何かを観て比較する場合、「等しい事物」とは異なる「等しさ」を想起する。それ以前にその知識がなければならない。「美」「善」「正義」「敬虔」などについても同様である。もしそうであれば、魂は人間の中に入る前にも存在しており、知力を持っていたことになる。

魂とイデアの親近性による証明では、合成的なものは解体し、非合成的なものは解体しないという原則に基づく。感覚によらず、思惟以外では捉えることができない「等しさ」とか「美しさ」などの本質にかかわるものは変化しない。魂は非合成のもので解体せず、肉体は合成的なものゆえ解体する。

そしてイデア論による最終証明は、反対の性質を排除する原則をもとに以下のように進む。

「身体に何が生じると生きたものになるか?」--「魂が生ずると」
「正義を受け入れないものは?」ーー「不正義」
「音楽性を受け入れないものは?」--「非音楽的なもの」
「死を受け入れないものは?」--「不死なるもの」
「魂は死を受け入れないのか?」ーー「受け入れない」
「すなわち、魂は不死なるものだ」

いずれも証明にはなっていないように見えるが、わたしにとってそれはどうでもよいことであった。「神話」にあったソクラテスの次の言葉が迫って来たからである。

もしも魂が不死であるならば、われわれが生と呼んでいるこの時間のためばかりではなく、未来永劫のために、魂の世話をしなければならないのである。・・・といのは、魂がハデスに赴くにあたってたずさえて行くものは、ただ教養と自分で養った性格だけ・・・なのである。

真偽は分からないが、魂が永遠の場合、魂だけになったわたしはどのように過ごすのかという問いが迫って来たのである。つまり、永遠の中にあって退屈せずに過ごすには、魂ができる唯一のこと、思惟するための力を生きている間に十分に鍛えるほかないのではないかという答えが見えたのである。『パイドン』の最大の贈り物は、わたしにとってはコレだったのである。




ここで、プラトン哲学におけるものの見方、生き方を示す「洞窟の比喩」と「線分の比喩」を紹介したい。まず、『国家』第7巻に出てくる「洞窟の比喩」について(上図参照)。洞窟に住んでいる人々は、子どもの頃から手足も首も縛られていて動くことができず、振り返ることもできない。彼らはずっと洞窟の奥を見ながら暮らしている。入口の上方に火が燃えていて、人々をうしろから照らしている。火と人々のあいだに道があり、道に沿って壁が作られている。壁に沿って、いろんな種類の道具、木や石などで作られた人間や動物の像が、壁の上に差し上げられながら運ばれていく。その影絵を見て暮らしている。

この状況を井筒俊彦(1914-1993)は、次のように解説する。洞窟で拘束された囚人にとって、影が彼らの全世界。これが感性的世界に生き、そこで満足している日常的人間の状態(無知の境遇)である。次の段階になり、囚人は解き放たれ上に向かい外の世界を目するが、影の方が遥かに実在的だと思う。そして最終段階で、洞窟の外に出て太陽の下の世界を眺めると、眼は徐々に光に慣れ、地上のものを識別できるようになり、それが幸福感を齎すことになる。これが感性界からイデア界に上昇する向上道(アナバシス)であり、その道を実際に歩むことが人間形成の道である。ただ井筒は、ここに留まってはならないという。観想から成る向上道の後には実践を伴う向下道(カタバシス)、すなわち俗界への下降を忘れてはならないという。向上道を昇り「善のイデア」を体感することで満足することは許されず、下降して世人に尽くさなければプラトン的哲人の人格は完成しないと言う。




『国家』第6巻に出てくる「線分の比喩」も同様のことを表している。洞窟の奥(A)から太陽の下(B)に至る道を、C点によって洞窟に近いA-C領域(感性界)と太陽に近いC-B領域(叡智界)に2分される。さらにそれぞれをDとE点で分割すると、以下のように4分割される。

1: 洞窟の壁面を眺めている状態で、憶測・幻影の世界。

2: 壁面から後ろに目をやるも、信念にはなるが、実在には至らない。 

3: 悟性的認識の領域で、仮説から推論で結論を出すことはできるが、存在の究極まで至っていない。

4: 超感性、超知性、純粋思惟の世界で、認識するのは「実在」(ousia)である。ここまで来た人は弁証家(ディアレクティコス)、真の哲学者だが、後世、神秘家と言われるようになる。現代では、3の段階で真の哲学者とされる。





最後に、わたしがこれまでに辿り着いたところをプラトン哲学に絡めてお話して今回の会を終えた。それは次のようなことであった。
意識の第三層を充実させることにより精神を集中し、科学の形而上学化(metaphysicalization of science: MOS)という方法を用いて、永遠に辿り着くことがないかもしれない絶対的真理(プラトンの言う「善のイデア」)に向かうこと。そこに生きる意味を見出すようになっている。ディオティマ流に言えば、それが不死に近づく道なのかもしれない。

それから、今回のカフェの準備の過程で、MOSと生き方との関連が見えてきた(上図参照)。これは、これまでの自らのあゆみを振り返った時に浮かんできたイメージである。つまり、科学者として生きてきた時間の後に、哲学的な省察をする時間を設けるという人生の一つの時間割のようなものである。参考になるとすれば幸いである。


(まとめ: 2024年4月8日)



参加者からのコメント


◉ 昨日はありがとうございました。今回、『饗宴』と『パイドン』をまとめて読み、先生の解説を聞かせていただき、あらためてプラトン哲学の豊かさを感じました。対話篇をもう少し継続して読んでみたいと思っています。次回を楽しみにしております。


◉ 楽しい会に参加させていただき、ありがとうございました。『知的に刺激されるような会合はないか』とネットで検索し、今回の会合を知り、初めて参加させていただきました。期待通りの知的な刺激に溢れた会合でした。私自身は、これまで免疫学を含めて『科学』や『哲学』に無縁な生活をしてきたので、プラトンの『イデア論』や矢倉先生の『全的な生活』については、実感として理解できないままでしたが、ソクラテスが現代に現れたような矢倉先生や柔軟な知性を維持している参加者に会え、素晴らしい一日を過ごすことが出来ました。


◉ 刺激に満ちた楽しい時間をありがとうございました。職業生活に日常のほとんどの時間を埋没させている身としては、第三層の領域への足の踏み入れはなかなか困難でしたが、会の終わりにはつま先だけでも多少踏み込めたかな、、との錯覚に襲われました。過去の膨大な知的財産に埋もれることを楽しみながら、知の巨人化の様相を日に日に強める主宰者に大いに刺激を受けた貴重な時間でした。そして、最後のMOSの提示。科学のソムリエとしても成立しうるかと思い、職業生活者としての道標になりそうな気がして帰路につきました。


◉ 第11回サイファイカフェSHE札幌のまとめのメールをお送りいただきありがとうございました。拝読させていただきました。

饗宴』につきましては、自分が医療を仕事としていることもありエリュクシマコスに惹かれましたが、健康と病気の間の一体性(連続性)、健康のエロスと病気のエロスという生物学性極性、そしてその極性を調和させることが医療の本質であることなどが述べられており、矢倉先生が科学的に解明された免疫論(生命論)の原始的な形ではないかと感じました。と同時に、2500年も前に直観的(?)にこのような概念を想定していた哲学(者)の凄さを垣間見た思いがしました。

パイドンにつきましては、ソクラテスの哲学者としての断固とした死生観に驚かされました。「魂は不滅である」→「死とは魂が肉体から解放されるということである」→「死は生よりよいものである」という論理の展開は、賛同はできないものの、分かり易く魅力的だと思いました。このような死生観は、今でもヨーロッパの哲学やキリスト教の思想の底流となって流れているのでしょうか?このようなことを考えるのは、私は職業柄死にゆく患者さんを看取る事もあり、終末期医療、とりわけ「安楽死」について考えるのですが、現在安楽死(現在では医療介護死(医師や看護師などの医療者が患者の自殺をほう助すること)と呼ばれる)を合法化する国が増加しています。興味深いのは、合法化する国はオランダ、ベルギー、スイス、スペイン、カナダなどのキリスト教圏に多く、日本などアジアの国々には少ないといった地域性があるということで、この原因として、死についての「自己決定権」の概念の浸透度の違いがよく議論されていますが、私はそれよりもそれぞれの文化の底流にある「死生観」の違いが問題なのではないかと考えているからです。話が傍に逸れてしまいましたが、ソクラテス以外の哲学者の死生観についてもこれから考えてみたいと思います。

「生き方」に関しまして、免疫から哲学としての科学への中で私にとって最も感動的なのは「汎心論」の部分です。まだよく理解はできていませんが、考え始めてから確かに世界の見え方が少し変わったように思えます。生物、無生物を問わず、周囲のものに対して、連帯感、友情、尊敬の念といったものを感じるようになりつつあります。免疫は魂を持っていると思います。

今回の会では、私の的を外れがちな要領を得ない質問に対しましても、真摯にお答えいただきました矢倉先生と他の出席者の方々に心より感謝いたします。次回もぜひ出席させていただきたいと思います。ありがとうございました。










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